週刊ケモミちゃん 第6号 ~ヴァンピィ本の話~

やりたくてやっているので大丈夫です。
お久しぶり。微妙に週刊ではない、週刊ケモミちゃん第6号です。

ヴァンピィ本の話

テンション低くない? 大丈夫?

と、人が元気にしていれば嬉しいし、疲れていると心配してしまう、そんな人間心理について私が成程と思った話。若干大丈夫デハナイ。

そもそも私は人にものを説明するのが上手ではありません。

このブログの読者の方にはそろそろバレているのではないかと。

説明するべき前提が抜け落ち、読み手を置いてけぼりにすること頻りにあり。

しかし今回は、私の物語の作り方についてなんとか説明してみたく思っております。

まあ、大したことではないので、肩の力を抜いて読んでみてください。


987: なんで同人で死にネタなんて暗いやつやったん?

これね、この某配信に寄せられたコメントに、望まれてもないのに勝手に答えていこうと思いますよ。
待っていても質問は来ないので自分から取りに行く姿勢ね。もはや必死だよね。

それでも基本的にこのブログの読者の方は、そもそも何のことやらよく分かっていないと思いますし、実はケモミに関係もないですし、お前誰やねんって話だと思うので、まずはその辺りから説明していこうかなと思います。



調べたら3年前らしいよ?w 凄いね。

C91でケモミのキャラクター原作者のまりさやか君と薄い本を出したことが事の発端です。

薄いっていっても初めてのマンガで24ページあったので、当時の感覚では正直薄いのかもよく分かっていなかったです。

当然ネームなど描いたこともなかったので大変だったのですが、まりさやか君が根気強くペンを入れて描いてくれたし、

僕もネームとセリフで最後までサポートを続けられたと思うし、ずっと夢のような時間でした。

大学で死ぬような思いをしながらも、実験終わりに毎晩ネームを書いていて、そういうやりたいことがあったから生きていけてたんだなあとか。

とはいえ内容ははてブ的にNGなのでこれ以上は言えませんが。



同人誌の目的として、第一に『使用できるか』という観点と、

その観点と親和する形で、『ストーリーをどこまで作り込めるか』というのがネーム原作としてのテーマでした。

単純にやりたいことを書いても、『使用できる』とは限らないしね。
例えば「初めてのデート」を延々と書く、とか。
まあ湧けばいいんでしょうが。デートとかよく分からない。

んで、結局主人公のグランくんが死ぬ話になった。最後まで救わないバッドエンドものに舵を切りました。



987: なんで同人で死にネタなんて暗いやつやったん?

勝手に取り上げて失礼な分析をさせていただきますが、この質問には複数のニュアンスが含まれていると思っています。

同人くらい幸福なことやりなよ、なのか、同人なんだから消費できるものを、なのか。
いやもっと軽いやつでいいやん、っていうシンプルな疑問なのか。それは商業(本格)との対比ですね。
また、原作の強権を拒否できてないんじゃないか? とか色々。
同人で、という前提に、明るくあるべきという視点が読み取れ、不思議な感じがした、というのが私の第一印象です。
いや、彼の同人は明るいものだと思っていた、という意外感がどうやらこの場合は正しそうですね?




私は最初の同人誌で、
二つの間違いを犯しました。

一つ目は『性衝動』と『生衝動』の混同。ひどい。

私はグランくんという主人公の死を書いたわけではなく、「衰弱死」を書いていました。
「衰弱死」による<生の衝動>が、<性の衝動>としてヒロインに向かうことで、純粋と冒涜感が同居するのではないか。
背徳としてそこに高揚できるのではないか。薄い本としての仕掛けをそのように施すことを考えました。
単純に同じ布団で寝ていることが自然に見える関係性で、導入を作れると考えられたのも大きかった。

同時に、「衰弱」とは「無力感」の象徴でした。
徐々に弱っていき、何もできなくなる過程は、生きる希望もなくなるほどの昏い昏い自信の喪失でした。
私が「衰弱」と重ね合わせて書きたかったことは、救いもない「無力感」で、一般には「学習性無力感」と呼ばれるものなのではないかと、数年経った近頃、考えるようになりました。

私は当時グランの「衰弱死」を、はっきりと、「無力感によって死んでゆく者の象徴」なのだと考えながら書いていたのだと思います。

学習性無力感に冒された人間は、多分一生、戦い続けます。
人には見えない自信の喪失と戦って、そして、それだけで一杯一杯になって、コップは溢れているのに誰もそれには気付かないで、
そして当たり前みたいな表情を浮かべて人と付き合っていきます。
毎日の必死の心の努力は、人にとって当たり前の努力に見える。でもどうやってもそれ以上は行けません。それは底なしの蟻地獄に似ています。

一番つらかったときの衰弱死、というものを書こうとしていました。そして、そんなときに常に傍にいてくれる存在が本作のヒロインでした。

まりさやか君は最後のシーンを本当に綺麗に、というか、よくもあんなふうに手を握ってくれるように愛してくれるように、可愛く描いてくれたなあと思う……
ネームではヒロインの恐怖の表情しかなかったですからね。彼と組めて良かったと思えた瞬間はたくさんあったけれど、こういうところでいつも助けられています。



同人で死にネタをやった理由、というのは、
「同人だからこそやりたかった」という回答をしたいです。
同人ってアンダーグラウンドなので、
時間が腐るほど無いと基本的に行きつかないんですよ。
そしてそういう層は、得てして偏奇なものに強く惹かれてしまうんです。
何故かって私もそうだから。
時間が腐るほどある理由は、死ぬほど諦めてきたからでしょうか?
そうではないんだけれど、暗くて深い表現というのはよく知っている。
今作なんて物の数に入らないほど。そうではないでしょうか?

学習性無力感を衰弱死として書きながら、底に向かっていく。
二度と起き上がることなく、突き抜けて死ぬ。
読んでくれた人がもし、少しでも共感したのだとしたら。
それは本当は辛いことです。本来的に「死にたい」という表現ですから。
しかし代わりに、その苦しみを引き受けて死んでやろうと思ったグランがいた。
いや、最後までグランは死にたくなかっただろうけれど。
死にたくなかったから最後にグランがああやって叫んでいたんだけれど。

あの作品は、自信の底までいって、ああいう景色を見せてくれる人(グラン)がいたという物語だったんじゃないかなと。
吐き気のするシナリオのエゴの塊ですが、そう思っています。



間違いの二つ目。童貞のまま書いてしまったこと、ではなくて、

学習性無力感は伝染性であるのを強く意識していなかったこと。

こちらは難しい話になってしまうのですが、

簡単にいえば、

あんな凄い人が「俺は駄目だ」って言ってるんなら、「私もきっと駄目だ」。

みんな辛いんだな。辛いのが当たり前なんだな。

と、無力感が集団に伝染してしまうことだと、私は理解しています。

これについて、答えを書けていなかった。

普通はきっと、主人公が死んだら、「もう駄目だ」って思ってしまうよね。

主人公が象徴している無力感も同時に焼き尽くされた、とは思えないですよね。

伝えたかったこと、というか、私がシナリオライティングとして得意なことが、

『負の感情の底の底まで行っても綺麗な景色は見える』そして
『底を突き抜けることで違う人生が見える』という表現だとしたら、

もっと上手く伝えなければいけないんだと思います。
綺麗事か上っ面か錯覚なんじゃないかと考えてしまいます。

そこに回答しなければ、「私も駄目だ」と思う人を増やしてしまうことになる。

絶望の感染を食い止めるためにも、

次は、『めっちゃ抜ける作品』を目指していこう!



あっ、やめて、BANだけは!


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また次週。あばよ~